Roar of the Boar

日記として

味噌汁との和解

 味噌汁は好きだ。

 一汁一菜、総菜を口に入れ、立て続けに米を、そして味噌汁を啜れば劇的な味覚のグラデーション。幼いころからこの調和はどこの誰が見つけたのかと不思議に思う。

 

 今でも味噌汁は好きだ。

 現代日本、生活は乱れ、ついでに食も乱れ一汁一菜など家庭科の教科書のイメージ写真。三食米ではない日もある。味噌汁など猶更。だが、たまに思い出したように味噌汁を口にするとどこかに置いてきた何かを懐かしく感じる。

 大好物、というわけではないがそれでも味噌汁を喜ぶ遺伝子は確かに私の中にある。

 

 しかし、だ。

 丼についてくる味噌汁は許せない。まったく解せない。特に牛丼チェーン店の牛丼の脇についてくる奴。

 考えてみてほしい。そも丼とは何か。普通であれば茶碗に白米がよそってあって、皿にはおかずが盛り付けられてそれをいただきますという形式に異を唱え、大きく、深いどんぶりに米とおかずがでんと乗せられた極限まで無駄をそぎ落とした効率飯じゃないか。

 それをだ。なぜ汁がそこにいる。なんで米とおかずが手を取り合っているのにお前だけいっちょ前に椀で悠々自適にしているのか。お前がいなければこのトレーももっとコンパクトなんだ。

 しかも丼ってのはかきこむものであって汁は本当に飲むタイミングが分かりかねる。だからといって丼を食べた後に汁を流し込むとせっかくの満足感が微妙な汁の味わいで上書きされてホントーに微妙な気持ちになる。

 牛丼チェーン店の味噌汁となるともう極刑ものである。一口啜って暗雲が立ち込め、いやいや二口、それでも三口でもうダメ。顔をしかめずにいられない。

 とかく味わいが痩せこけている。まるで生命力というのを感じない味。そのくせ味噌めいたものはあるのがうっとおしい。食後に飲むと牛丼のジャンクな満足感に水を差すのだ。できることなら味噌汁は抜いてほしい。そしてその浮いた原価を牛丼のボリュームアップかクオリティアップに繋げてほしい。

 

 そんなわけで牛丼の味噌汁は何年もの間、知らんぷり、臭いものには蓋とずぅっと残してきた。だがだ、頼みもしないのに注文すると絶対についてくる執念深さにとうとう根負けした。まあタダなわけだし……毎度残して店員さんに捨てさせるのも……と思い、飲むことにしたのだが問題はタイミングだ。いつ飲むか。

 

 ということで色々考え、牛丼――BEEF BOWL――のエクスペリエンスを損なわないよう食事中に取ってみることにした。せっかく豪快にかきこみたいのに……と忸怩たる思いだがものは試し。いざ、飲んでみると……おお!

 意外と良いのだ。本当に良いのだ。まだ若いには若いがしかし油ものに微かな胸騒ぎを覚え始めた今日この頃。枯れた大地のような味噌汁が牛脂を出汁を中和し、緩やかに食道にいざなってくれるのだ。こんな味わい方があったとは……頭の下がる思いである。

 

 むやみやたらに歳は取りたくないものだがしかし老成してこそ得るものがある。

 あの時の嫌悪感は幼さの表れかもしれない。年月がそれを乗り越える懸け橋となるかもしれない。そんな気付きを得た……ような気がした。